土佐藩士 幕末の四大人斬りの一人
「人斬り以蔵」という異名は司馬遼太郎の小説により定着
生誕 1838年2月14日(天保9年1月20日)
死没 1865年7月3日(慶応元年5月11日)
享年28
辞世の句
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」
人物年表
1838年(天保9年)
土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)の郷士・岡田義平の長男として生まれる。
1854年(安政元年)
武市瑞山(半平太)に師事し、土佐一の剣豪と言われた小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)に剣術を学ぶ。
1856年(安政3年)
武市が江戸で剣術修行をする際、武市に伴い幕末江戸三大道場の一つ、士学館で鏡心明智流剣術を桃井春蔵に学ぶ。
翌年土佐に帰る。
1860年(万延元年)
武市の時勢探索に伴い中国、九州地方で剣術修行を続ける。
武市と別れ豊後岡藩(現大分県竹田市)に留まり、直指流剣術を学ぶ。
1862年(文久2年)
武市が結成した土佐勤王党に加盟。
参勤交代の衛士に抜擢され、武市らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。
その後、吉田東洋暗殺の下手人を捜索していた土佐藩士・井上佐市郎を暗殺。
以後、薩摩、長州その他の藩の同志達と共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達を天誅と称し暗殺する。
1863年(文久3年)
脱藩後、坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛を務める。
1864年(文久4年)
その後、龍馬や勝の元を離れ無宿者となり犯罪者として捕らえられ土佐へ送られる。
土佐では土佐勤王党の同志らも次々と捕らえられていた。
以蔵は拷問に耐え切れず自供してしまう。
その為、武市は更なる自白を阻止すべく以蔵に毒饅頭を送り毒殺を計画するも以蔵の父の許可を得られず断念。
1865年(慶応元年)
打ち首、獄門 享年28
どんな人物だったか・死に至った経緯
以蔵は初め独学にて剣術を学んでいた。その為、武市に師事し剣術を学ぶ時、その我流剣術で武市らを瞠目したという。
剣術に長けていた以蔵は教養や道徳心に欠けていた人物とされているが、実際は一般的な教育は受けていたとされる。
しかし、慕っていた武市からはあまり良く思われていなかったようでよく罵倒されている。
以蔵が捕縛され土佐に送られた事を知った武市に、「あのような阿呆は早く死んでくれればよけれど、あまあま御国へ戻り、誠に言いようもなき奴。さぞやさぞや親が嘆くろうと思い候」と言われている。
また、以蔵が拷問に耐え切れず自供した事についても、「以蔵がような者は誠に日本一の泣きみそと思い候」とも言われている。
正直少し可哀想に思う。
打ち首の後、見せしめのため獄門といって3日間晒し首にされている。
個人的な所感
慕っていた人物に嫌われてしまうといった点において少し同情してしまう。 しかし、いつの世も仲間を裏切る行為は嫌われてしまうという事を痛く痛感する。
だがこの辞世の句が持つ雰囲気は妙に心に染み入る。 報われない思いが込められているが、決して恨みなどではない不思議な感じ。
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