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武市半平太の辞世の句

武市半平太

武市半平太 享年37

 

半平太は通称で本名は小楯(こたて)号は瑞山(ずいざん) 
土佐藩士 土佐勤王党の盟主 坂本龍馬とは遠縁

 

生誕 1829年10月24日(文政12年9月27日)
死没 1865年7月3日(慶応元年5月11日) 

 

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人物年表

1829年(文政12年)
土佐国吹井村(現高知県高知市仁井田)にうまれる。

 

1841年(天保12年)
一刀流・千頭伝四郎に入門し剣術を学ぶ。

 

1849年(嘉永2年)
父母を相次いで亡くした後、郷士島村源次郎の長女・富子と結婚。

 

1850年(嘉永3年)
高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養の元で剣術を学び、間もなく初伝を授かる。

 

1852年(嘉永5年)
中伝を授かる。

 

1854年(嘉永7年)
道場を開き、麻田より皆伝を伝授される。

 

1854年(安政元年)
地震により家屋を失う。

 

1855年(安政2年)
新築の自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助と共同で道場を開き門弟が120人集まる。
門下には中岡慎太郎や岡田以蔵などがおり、後に結成せれる土佐勤王党の母体となる。

 

1856年(安政3年)
江戸に岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って剣術修行に出る。
鏡心明智流の士学館に入門。桃井春蔵に見込まれ皆伝を授かり、塾頭になる。

 

1860年(安政7年)
祖母が死去。喪が明けた後岡田以蔵らを連れ剣術修行名目で中国・九州地方(西国諸藩)の動静視察に出る。

 

1861年(文久元年)
江戸で長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平などの尊王攘夷派と交流する。
特に久坂玄瑞に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)」の思想に共鳴する。
土佐勤王党を結成。

 

1862年(文久2年)
吉田東洋暗殺を指示。
参勤交代の列に加わり江戸に向かう。
白札郷士から上士格に昇進。

 

1863年(文久3年)
八月十八日の政変により投獄される。

 

1865年(慶応元年)
主君に対する不敬行為という罪名により切腹。享年37。
切腹の際、今まで誰も為しえなかったとされる「三文字割腹の法」を用いた。

どんな人物だったか・死に至った経緯

 「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」という言葉が残されていたり、
長州の久坂玄瑞は「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」「その熱誠、西郷の上にあり」と評していたり、
かなりの誠実さを持った人だという事がわかる。

 

 岡田以蔵を毒殺しようと他の同志らが計画するが、武市は岡田の親の承諾なくして行えないとして安易な行動を止めている。
最終的には岡田以蔵の事を軽蔑していたようだが、こういった点も誠実さの現れだろう。
切腹に用いた「三文字割腹の法」とは文字どおり三度腹をかっさばく方法で想像しただけでもこの人の凄さがわかる。

 

 ちなみに、割腹だけでは半日程生きているらしい。
そう考えると、介錯はありがたい事だと痛感します...。

辞世の句

 

「ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」

個人的な所感

 上記でも話しているが、「三文字割腹の法」を用いての切腹というのが凄まじい。
もし自分が切腹するのであれば確実に真似など出来ない。
個人的にはこの事が一番この武市半平太という人物を大物だと思う根拠だと自覚している。

 

 そしてこの辞世の句。荒々しい感じなどは一切無く、むしろ平穏は雰囲気すら感じるが、
その中に込められた"死への覚悟"をただただ感じ、僕の心を離さない。
あなたはどんな事を感じますか?

 

 

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