吉田松陰の辞世の句《松下村塾》


吉田松陰
吉田松陰

長州藩士、思想家、兵学者
生誕 1830年9月20日(文政13年8月4日)
没年 1859年11月21日(安政6年10月27日)
享年30

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辞世の句

弟子宛

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

家族宛

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

人物年表

1830年(文政13年)
長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)の萩藩士・杉常道(百合之助・ゆりのすけ)の次男としてうまれる。

1834年(天保5年)
父の弟・山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。
翌年大助が死去したため、同じく父の弟の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受ける。

1840年(天保11年)
藩主・毛利慶親への御前講義を評価され重用される。

1853年(嘉永6年)
ペリーが浦賀に来航、師の佐久間象山と黒船を視察し、外国留学を決意。
弟子で同郷の金子重之輔と共に、長崎に寄港中のロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗。

1584年(安政元年)
ペリーが日米和親条約締結の為再航した際、再び金子くんと二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号に乗り込み密航を願うも拒否られた。(ペリー暗殺を計画していたとする説もある)
その後、幕府にバレる前に自首し投獄される。

1855年(安政2年)
出獄を許されるが、杉家に幽閉処分となる。

1857年(安政4年)
叔父の玉木の私塾・松下村塾の名を引き継ぎ、杉家敷地内に松下村塾を開く。
この松下村塾で久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などといった多くの有能な人物を育てた。
そしてこの松下村塾は「生きた学問」と言われ、師匠と弟子が別け隔てなく意見を交わし、登山や水泳なども行ったという(今でいう遠足!?笑)

1858年(安政5年)
幕府が朝廷のお許しなく日米修好通商条約を締結した事に激怒し、老中・間部詮勝の暗殺を計画するが弟子達に反対され断念。
さらに倒幕を主張し危険と判断され再び投獄される。

1859年(安政6年)
老中暗殺計画を自供し斬首の刑に処された。 享年30。
安政の大獄での最後の刑死者となる。

どんな人物だったか・死に至った経緯

11歳にして藩主慶親に講義を行い、それが認められ重用されるといった話があるように、とても聡明な人物だった事がわかる。

逆に言い換えると、藩主慶親からすれば11歳も年下の松蔭を重用するという事なので、藩主慶親の器の大きさもうかがい知れる出来事である。

そして松下村塾から有能な人物が数多く輩出させた事からも、人を育てる才能があった事も容易に想像できる。

これはまさに「生きた学問」による所が大きいのだろう。

安政の大獄で投獄された時、幕閣らは松蔭の暗殺計画が実行以前に頓挫した事や、素直に罪を自白している事から、"遠島"が妥当と判断していたという。

しかし松蔭自身が"死罪"が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れ斬首刑に処された。

個人的な所感

弟子宛、家族宛ともに有名でどちらも心に残るが、僕個人は家族宛の辞世の句がより心に残る。まさに「親心」の深さを読んでいるが、僕はまだ結婚もしていなければ、もちろん子供も居ない。

なので「子供だって親の事を思ってるぞ!」と反論したくなる。

しかし、いざその"親"という者になった時、きっとこの辞世の句が本当の意味で心に響くのだろうと思う。

今はただ、この辞世の句を見て、親のありがたさ、親を大切にしよう、といった事を再確認するいい意味で戒めになっている。

あなたは素直に親に感謝できますか?

おしまい。


辞世の句

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コメント

  1. aruma より:

    吉田松陰は長州藩士です。薩摩は間違いでしょう。

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