お市の辞世の句《戦国一の美女 / 信長の妹》


お市
お市

茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)のお母さん。織田信長の妹であり、浅井長政の妻。その後、柴田勝家の妻となり共に自害した『戦国一の美女』といわれる肝っ玉母さん! そしてなんと今上天皇のご先祖にあたる人物。

生誕 1547年(天文16年)
没年 1583年6月14日(天正11年4月24日)
享年37。

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辞世の句

『さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな』

意味

ただでさえ寝る頃合いなのに、これはまるで夏の夜に別れを誘い鳴くホトトギスみたいですね。

これはホトトギスというのが夏にくる渡り鳥で、夏が終わると越冬のため南の国に渡ってしまう事から、それにかけていると思います。

また、ホトトギスは別名「死出の田長(しでのたをさ)」と呼ばれており、死出の山から飛んでくるという伝説があります。

死出の山というのは、死後の世(冥途)にあるといわれる険しい山のことです。

この2つをかけて、私達の今の状況は、ホトトギスが私達を死へ誘うかのようですね。といった思いを込めているのでしょう。

人物年表

1567年(永禄10年)
兄信長の名により近江国(滋賀県)の浅井長政に嫁ぐ。

1570年5月29日(元亀/げんき元年4月25日)
兄信長が『朝倉への不戦の誓い』を破り越前の朝倉義景を攻める。
夫長政は朝倉家との同盟を重視し、信長軍を背後から急襲する。
この時、兄信長に陣中見舞いとして両端を紐で結んだ小豆袋を送り、夫長政の裏切りを知らせたと言われているが、真偽は定かではない。(金ケ崎の戦い/金ケ崎の退き口)
夫長政の裏切りにより、浅井家と織田家は敵対することになったが、長政とお市の夫婦仲は良く仲睦まじかったという。

1570年月30日(元亀元年6月28日)
夫長政および朝倉軍が姉川の戦いで敗れるが、まだ余力は残っており抵抗を続ける。
この間信長は浅井・朝倉の支持勢力である比叡山を焼き打ちするなどをし、敵勢力を掃討している。と同時に調略により浅井・朝倉家の内部分裂を諜策する。

1573年(天正元年8月8日)
小谷城の戦いで小谷城が陥落し夫長政とその父久政が自害する。
その中でお市は3人の娘と共に藤掛永勝らに救出される。
その後は織田家に引き取られ、兄の信包(のぶかね)のもと清州城にて庇護を受ける。信長もお市と三姉妹を気にかけ、贅沢をさせたという。

1582年6月21日(天正10年6月2日)
本能寺の変で兄信長が死去。
その後、秀吉の仲介により織田家筆頭家老柴田勝家と再婚する。

1583年4月(天正11年)
夫の勝家が織田家の後継者問題で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れる。
その後、越前北ノ庄城にて夫勝家と共に自害する。享年37。
その際、お市は勝家に城から逃れるように言われたが、『浅井落城で逃げてまたもや』と言い拒絶する。
3人の娘達には『浅井と織田の血を絶やさぬように』と言い聞かせ、秀吉のもとへ逃れさせる。

どんな人物だったか・死に至った経緯

戦国一の美女と言われるほど美人さんだったようで、信長に一番可愛がられた妹みたいです。いつの世も妹というのはかわいいのですね。また、元々織田家は美男美女の家系のようで信長もカッコ良かったらしい。

自害する前に夫と辞世の句を詠いあったそうで、下記のお市の辞世の句に対して勝家が返句しています。

柴田勝家の辞世の句は後日掲載予定。

個人的な所感

なんと言っても『戦国一の美女』というのが気になりますよね。叶うことなら見てみたいものです。娘3人も母に似て美人だったと言われています。

また今上天皇の祖先にあたるというのが驚きました。なんでもお江の娘(お市の孫)である豊臣完子という人物が昭和天皇の母方の家系にあたるそうです。ものすごい歴史を感じますね。ちなみに江は三代将軍徳川家光の母です。

また、自害の際、夫の柴田勝家と辞世の句を詠いあったといのが、なんだか"死"というとても悲しい事なのに、それ以上になぜか美しさを感じるのは僕だけでしょうか?

おしまい。


辞世の句

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